休むことが、むずかしいあなたへ。【AI】

―5月の私の「休み方の試行錯誤」から
こんにちは、飯島です。5月というひと月をどう過ごしていたか、ふと立ち止まって、振り返ってみることにしました。
この1ヶ月間、私は何か大きな成果を出したわけでも、計画通りに物事が進んだわけでもありません。けれど、それでも「大事な時間だった」と今は言えそうな気がしています。
なぜなら私はこの5月、“休むこと”とちゃんと向き合っていたからです。
「休んだほうがいい」とわかっているのに、休めない。
連休が始まって、世の中が休みムードになっているとき。どこか気持ちが置いていかれるような感覚がありました。時間はある。でもうまく休めない。人の多さに疲れ、遠出をする気力もわかず、かといって家にずっとこもっているのもしんどい。
「ちゃんと休むって、どういうことなんだろう?」私は、そんな問いのなかにいました。
休みとは、「何をしないか」じゃなく、「自分をいたわれたか」かもしれない。
ふらっと手賀沼まで自転車を漕いで、新緑のにおいを吸い込んだ朝。わずか30分ほどだったけれど、確かに心が軽くなった気がしました。
その瞬間、ふと思ったんです。「ああ、休んだってこういうことかもしれない」「どれだけ時間を費やしたかじゃなく、“自分をいたわれたかどうか”なのかも」
その感覚を確かめるように、私はいろんな休み方を試していきました。
自分にあった“休み方”を探す日々
うまくいった日もあれば、いまいちだった日もあります。でも、そのなかでわかってきたことがあります。
たとえば、
• 散歩中には思考がやわらかくなる
• ジャズと雨音は、心と身体のリズムを整えてくれる
• 部屋で読むよりも、カフェなどのざわめきの中のほうが、本に入りやすい
• 書く気になれない日は、過去の日記を「見返す」だけでも落ち着く
• 体調が微妙な日は、あえて“何も決めない”ことで、焦りが静まる
どれも些細なことかもしれません。でも、“自分の感覚”に軸を置いて選び直した行動には、確かな意味がありました。
「ちゃんと休めたか」じゃなくて、「何に反応していたか」でふりかえる
ふりかえってみると、私はこの5月、いろんなものに反応していました。
たとえば:
- 父の遺品が残された屋根裏を整理していたとき
- 子ども向けの物語を読みながら、やさしさに救われた夕方
- コーヒーがサイフォンからマシンに変わっていたことに、思わずがっかりした瞬間
反応していたのは、心のどこかがちゃんと動いていたから。それは、うまく「過ごせたかどうか」よりも、ずっと確かな記録なんだと思います。
「何かしたいけど、何をすればいいのかわからない日」へのヒント
この文章を読んでいるあなたが、もしもいま、
- 休むのが下手だと感じている
- 何をしても満たされない
- 日々に意味が見出せないと感じている
そんな状態にあるのなら、どうか安心してほしい。休むことに慣れている人なんて、きっといません。それでも少しずつ、「自分なりのいたわり方」は見えてくる。そのヒントは、他人の成功体験よりも、自分が“ほっとした瞬間”の中にあると、私は思っています。
最後に:自分の声が、かすかに聞こえる日
5月は、よくわからないまま過ぎていった日もありました。だけど、たとえば以下のことは、たしかにこの月に起きたことです。
- 散歩中に、言葉にならない気持ちをメモした
- 整理しそびれていた気持ちと、屋根裏の埃を同時に片づけた
- ちょっと高いコーヒーを飲みながら、本の登場人物に救われた
- 気圧に負けそうな日、カキフライ定食で持ち直した
- 自分が書いた昔の日記に、「頑張ってたね」と声をかけたくなった
どれも、「目に見える成果」ではありません。でも、**“今の自分を信頼できる小さな証”**のように感じています。6月もまた、同じように迷ったり、試したりすると思う。
でもそのときに、この5月の静かな営みを、私はどこかで思い出す気がしています。
編集後記:AIではなく自分の言葉で振り返る
この記事は、2025年5月のわたしの日記をベースに書いてAIに書いてもらったものです。第1案で出てきた記事は、個人的にはいまいち。第1案は、AIという主体が固有にあって、AIが私に取材をしたような体で書いていました。これがあんまりおもしろくない。
そこで第2案では、あくまで私になりきって書いてくださいと指示を出しました。これもまた面白くない。本当に個人的なことで、わたしが読んでいてもあまりおもしろくないと思った。
ですが第3案で、読者にとっても意味がある文章に変えてほしい、と伝えると、ほぼ内容を変えず、上記の記事が出てきました。なるほどと思いました。
確かに記事のベースはわたしの記事です。これを「読者にとっても意味があるように」と変えることで、私にとっても興味深い文章になっていきました。もしかしたらAIによって私の代わりに書いてもらう意味としては、①私の体験が他の人にとってどんな意味があるのかということ、そして②私が私の体験をどうおもしろく感じることができるかということ、この2点に気づくことにつなげることにあるのではないかと思います。個人的には「気圧に負けそうな日、カキフライ定食で持ち直した」という表現はかなりおもしろかったですね(これは、確かに気圧がひどかったとき、昼食にある場所のランチでカキフライ定食を食べたら、めちゃくちゃ美味しく感じた、ということを日記に書いていたところからきています)。
こんな意味でもAIに書いてもらった意味がありそうです。まずは私が読者になって面白いと感じられるかも重要そうです。積み重なると、私のための記事が書き溜められそうだなと思いました。