葛藤、罪悪感、症状〜千葉県児童相談所職員2ヶ月目終わり頃〜
1 子どもたちへの関わりの変化
シリーズ「なぜ元職場の千葉県・児童相談所に裁判を起こしたのか」の職員時代の勤務編。
前回は、激務になるにつれて、自分の疲れに気づかなくなっていた様子について記事にしました。
厳しい労働環境や激務は、職場や自分自身の感覚が鈍くなるだけでなく、子どもたちへの関わりも次第に変化していきました。
2 ケアではなく、管理する側としての葛藤
「もういっぱいいっぱいで、職員が全然足りない。声をきちんと聴くことを大事にしてきたつもりだけど、忙しすぎて一人一人の要望を聞いていられず、思わず強く注意してしまう時だってあるから、罪悪感もある。怒りたくないけど、怒らないと危険だから怒らないといけない。
新人だからといって、現場にいる人からすればそれは関係なく、他の職員と同じ水準を求められて、満たさなければ注意される。でも、事前に誰かが教えてくれるわけじゃない。背中から覚えて、注意されながら、修正されながら、覚えていくしかない。
理想とは程遠い関わり方で嫌になるけど、これが現実だから、どうにかやっていくしかない。」(5月20日日記)
忙しくなってきたこの時期から、常に葛藤を抱えていました。
子どもの電話相談の経験から、子どもの声を聴きたいと思って、児童相談所の仕事を目指して、仕事をしてきました。ですが、現実は忙しすぎて、子ども一人一人の声をきく時間も余裕もありませんでした。
先輩からは、勤務中なんども「話を聴きすぎないで、仕事が回らなくなっちゃう」と言われてきました。(この辺は以下のJ-CASTニュースの記事に詳しいです)
そのため、自分に余裕があるときには、こっそりと子どもたちの話をゆっくりきいていた時期もあったのですが、それさえ難しくなっていました。
私はこの時期子どもたちの話を聴けなかっただけではなかったと思います。むしろ、子どもをケアすることとは逆に、子どもたちのことを管理する側になっていきました。
20人定員で、40人の子どもたちがいる状況は、いつ危険な状況が起こってもおかしくないような状況でした。子どもたちが怪我をしたり、傷ついたり、どこかへ行ってしまったり、そうしたことからまず身体的に守ることが私たちの最低限の役目でした。その最低限の役目でさえ、危ういような状態でした。
そのため何か危険があれば、子どもたちを注意することもありました。あまりに危ないときには怒ってしまったこともありました。
でもそれは、「子どもの話を聴く」という理想からはあまりにほと遠い関わり方でした。いったい私はなんのために仕事をしているのかと、常に葛藤していました。
本当に苦しかったです。
3 心身の症状が出てきた
「さて出勤。電車で職場に近づいて来るたびに緊張し、憂鬱になっていく。本を読む気にも、朝食を食べる気にもならない。なぜこれほど憂鬱なのか考えてみた。
おそらく職場は私にとって、自分の存在する意味を常に問われ、ともすれば否定もされる可能性をも含んでいる場所だと感じているためだろう。
果たしてそこに自分がいる意味があるのか、逆に何もせず無意味な存在なのか常に問われ続けている気がする。
とはいえ緊張を全くしないというのも良くないが、重く考えすぎるのも良くはないだろう。うまくバランスが取れれば良いのだけれど。」(5月25日)
その頃から、私の心身に症状が出ていました。
前回の記事で書いたように、自分の疲れに対して鈍感になっていたり、モチベーションがあがらなかったり、休みの日には1日寝ていたのに体力が回復しなかったり、朝何もする気も起きなかったり、食欲も減っていきました。
なぜこうなってしまったのか、振り返ってみると
確かに、研修もなく、OJTも十分でなく、残業も多く、夜勤も寝ることができず、といった労働環境の問題は大きいです。
でも私は1番苦しかったのは、「私は子どもたちをケアしているのではなく、傷つけているのかもしれない」という罪悪感でした。
研修もOJTもないということは、唯一頼りにせざるをえないのは、これまでの自分の感覚や経験です(感覚に頼ることの危険性は、読んでいる方の多くがわかると思います)。生身の、まるで何も武器・防具を持たない、自分がいました。
ケアをしたいと思い、理想をもって入った私でしたが、その現実のあまりの過酷さに、すべて理想は砕けていきました。果たして自分がこの場所で働く意味はないのかもしれないと葛藤しましたし、むしろ逆に子どもたちを傷つけているのではないかという罪悪感でいっぱいでした。
5月下旬には、眠れないといった症状が起きていましたが、眠れなかったとき、こんな日記を書いていました。
「寝れなくなっているので、最近の悩みをいくつか。
人が本当に足りない。色んな状況の中で、心が揺れて落ち着かない子のそばにいて話をすることすらできない。俺らができるのは、即座にその場を治めるために、強く注意することしかできない。その子は、拠り所のない気持ちを無理やり自分の中に押し込める。押し込め切れない気持ちは、大声や大きな行動になって現れるけど、それすら注意をして無理矢理沈めるしかない。こうすることしかできない。今の状況では、しょうがない。でも目の前にいながら、こんなことしかできない自分が虚しいし、悲しいし、もどかしい。
こんなに怒らないといけないのだろうか。それぞれの背景があって、そうせざるを得ない状況にあって、決して責められないのに、怒らざるをえない。自分の大事にしてきた思いを今自分でぐちゃぐちゃにしつつある。私に経験があれば別だが、指導力もないゆえ、一番瞬間的に効果が生まれる怒りに頼らざるをえない。私が一番忌避してきたことにも関わらず。怒って、自らをすり減らしている。何のためにこの仕事についたのかと、自問したくなる。」
(5月27日日記)
この日記以上に、当時の自分を説明する必要はないと思います。
これが勤務をはじめて2ヶ月目が終わろうとしている現実でした。
5 おわりに
勤務から2ヶ月が終わりました。その中でもなんとか工夫しようとします。
「60点を100%の力で」https://m.youtube.com/watch?v=HNv7qvOTdF8
このインタビューの一時保護所の方の言葉の意味を少しずつ理解しようとしている。
これまでなるべく100点を目指して、100%の体力を仕事中に費やそうとしてきた。
仕事の後に疲れて動けないことが、頑張った証拠になり、仕事の後にでも体力余裕があるなと思ったら、「今日は結構サボってたかもな」と罪悪感さえ抱えることもあった。
でも100点目指して100%の力を毎日出し続けるのは、とてもじゃないけど持たない。数日ならまだしも、これから何百日と続ける長い見通しを持っておかなくてはと思う。
だからこそ、余裕を持とうと思う。力の抜きどころはうまくしようと思う。
ではどういうところで力を抜くか。ひとまず私は、怒ること、注意することを力抜いてやろうと思う。むしろ、褒めるところはないか、強みはなんだろうか、と探すことに力の配分を多くできないかと構想している。
その方がこっちの気分も良い。
(5月30日日記)
ですが、その力を抜こうとする工夫さえ、6月半ばには打ち砕かれています。
子どもたちの数が定員の210%を超えていきます。
次回はその状況について書きたいと思います。
6 支えてくれた漫画『新・ちいさいひと(3)』
最後に、この時期すごく私を支えてくれた本をご紹介します。
新シリーズ一時保護所編完全収録。
虐待の疑いがあった母親の元へ小学生の志遠を返すことを決めた青葉児童相談所。
だが志遠は、母親の虐待で一時保護所に戻ってきてしまう…
母親の元へ戻ることを切望する志遠に対し、健太ら青葉児相が下した決断は…?
大反響の一時保護所編、完全収録。
この漫画を読んだとき、私はこんな感想をもっていましたので、それを残しておきます。
ようやく『ちいさいひと』の続編を読み進める。『新・ちいさいひと』の第3巻は一時保護編ということで、非常に興味深く読んだ。
さて個人的な感想。
正直、これまで受けてきた研修よりもずっと一時保護所のことについて正面から取り上げていて、よっぽどこれまでの研修よりも教えられることが多かった。
それだけ丹念に調べて作り上げられた作品なのだと思う。何度も読み返したい。
一方で私自身情けなくなった。働く身でありながら、ここに書かれていることが全く身につけられていないことがわかった。いったいこれまで何してきたのかとすら思う。
一時保護所に関する研修は、これまでほぼ受けた経験がない。保護所はこういう場所で、という概略はあった。しかし、そこでどういう対応が求められて、どんなことに気をつけるのか、子どもの置かれている心境はどんなものか、などについては、全く研修では取り上げられていない。
働く上では確かに「私は」困らない。先輩の背中から(まあ見せてもらえる暇さえないのだが)、その日をこなす上での実用的な知識は徐々についてくる。しかし、働く上での姿勢や思いや具体的な接し方、研修よりもよっぽどこのマンガを読む方が実践的な知識になった。
この本でもこう書かれている。
「一時保護所の職員研修についてのカリキュラムを国は示しておらず現場任せだ。」
そんな研修の穴を補ってくれたのが、このマンガであると思う。
(6月10日日記)