大きな野望はないけれど、「普通に暮らしたい」という夢がある

1 大きな夢が浮かばなくなった理由
裁判後自分は何をしようかと考えている中で、気付いたことがあります。大きな野望や夢が思い浮かばなくなってきたということです。ただこれは決して悪いことじゃないと思っています。
以前はもっと「弁護士になりたい」「社会人の学び場をつくりたい」といった大きな目標を掲げて、熱意を注ぎたい自分がいました。一方最近は生活に身近なやりたいことくらいしか思いつきません。「コーヒー豆焙煎したい」「友人や知り合いとまた会いたいな」「もう一回横瀬・秩父に住みたい」「親やばあちゃん孝行もしたい」・・・など、今でも行動に移せそうなことが、ポツポツとふと浮かんできます。
大きな野望や夢は今はなかなか浮かびませんが、それはいい意味なのではないかと思っています。それは、千葉県との裁判の中で、私の人生のなかでもとてもやりたかったことを叶えてきたからではないかと思います。この裁判には自分の人生の大きな部分をかけてきました。もちろん裁判はまだ高等裁判所へと続きます。ですが当初裁判をはじめた目的は、大きな部分を達成できたと感じています。判決の内容も大切でしたが、それと同じくらい裁判の過程でさまざまな方からのご協力をいただいたおかげで、裁判の大切な意義を感じることができました。
大げさにいってしまえば、ここで人生が終わっても悔いはない、そう言っても過言ではないと、心から思えます。
2 「普通に暮らしたい」という夢がある
一方でそんなことを話していると、周囲から心配されることもあります。「まだまだこれから楽しいことがあるよ!」「31歳でしょ?まだ若いしできることはたくさんある」「何かほかに、やりたいことや成し遂げたいことはないの?」などなど・・・。なるほど、確かにそうなのかもしれません。一方、これから先の人生何を成し遂げたいかと聞かれると、言葉に詰まる自分がいるのも確かです。
ですが、強いていえば一つあります。「普通に暮らしたい」という夢です。周りからすると、あまり面白い答えではないのかもしれません。ただ、私からすると「普通に暮らしたい」ということは、大切な夢ではあります。
幼少期や生育歴、キャリアなどを含めて、私はそこそこ特殊な人生を送ってきました。加えて、実名・顔出しでの裁判です。その時その場臨機応変に、なんとか生きることができる道を選んで、なんとか過ごしてきました。だからこそ、「普通に暮らしたい」という夢は、私にとっては大切なのです。
とはいっても、「普通の暮らし」までは望んでいません。日本の理想的な家族像や、正社員でマイホームがあって、仲がいい家族がいて・・・といったことまでは求めていません。
私が望むのは、時には大変なことも、傷つくことも、悲しむこともある中で、時々嬉しいことも、楽しいことも、生きててよかったと感じることもありつつ、生活の大部分においては、誰からも傷つけられることなく、刺激的な生活というよりは平穏な暮らしで、多少のややこしさや困難にぶつかりながらも自分の仕事をこなし、プライベートな時間を過ごしても、自然に、あたりまえのように生きることができること、だと思います。
そんな「普通に暮らしたい」という願いが、私がひねりだせる夢ではないかと思います。
本当であれば、誰しもが「当たり前に生きる」ことができる世の中だと良いのですが、必ずしもそうじゃない時代だと感じています。だからこそ、「普通に暮らしたい」という夢は、案外今の時代に大切なことなのではないかと思う、今日このごろです。