弁護士になりたかった学生時代の話
0 はじめに〜弁護士を目指していなかったら、今裁判を起こしていないかもしれない
私は今千葉県に対して未払い賃金の請求などに関する裁判を起こしていますが、おそらく多くの人にとっては裁判を起こすというのはハードルが高いように思えるかもしれません。もちろんそれは私にとっても同様なのですが、元々私は法律を学び、弁護士になりたかったこともあり、裁判という存在がそこまで自分と距離があるものではなかったことから、裁判という選択を取ることができたのかもしれません。
ここでは私が法律を学び・弁護士を目指したきっかけについて書こうと思います。どういうところで法律や裁判を身近に感じていたのか、また本格的に法律を学びたいと思った動機はどこにあったのか、その辺について書きたいと思います。
1 きっかけは裁判のブログ
確か私が小学校の中学年高学年くらいの頃なので、2003〜5年頃によくある裁判ブログを読んでいました。
ちょうどこの年齢の時期私は、父親が家電量販店に勤めていた関係で家にパソコンが置いてあることから、パソコンをいじるようになっていて、当時はやっていたブログを色々見ていたときに、出会ったのがこの裁判ブログでした。
「うちのネコが訴えられました!?」という名前のブログでした。内容はかなり曖昧ですが、自分の家のネコが近所の家に出入りしていて何か物を傷つけた疑惑をかけられ、近所の人から裁判を起こされたというところから話が始まった記憶があります。
ちなみにブログは書籍にもなっているので、よかったらご覧下さい(KADOKAWAのHP参照)。
このブログは、事実がフィクションかわからないところはありましたが、こうした身近な問題が裁判になること、そして法律が案外身近な存在であることを、子どもながらにすごく感じた作品でした。
2 漠然と「人のために役立ちたい」という将来像
子どもの時はよく将来の夢などよく聞かれる機会が多いものですが、私はかなり漠然と人の役に立つ仕事をしたいと思っていました。警察・消防士・大工・探偵(名探偵コナンの影響)・・・など、色々答えていた記憶があります。
その中で裁判ブログと出会ったことで、法律を通じて人の役に立てるかもしれないと思うようになり、おそらく小学校高学年くらいには弁護士になりたいという将来像を描いていた気がします。
3 法律という武器の必要性〜いじめの経験
一方で今から振り返ると、自分が子どもの頃いじめを受けていた経験が、法律の必要性をより感じさせたのだろうとは思っています。
やはり学校生活の中では、私のところでもいじめがかなりありました。荒れている学校ということで有名だったこともあるかもしれません。私の場合は、父親のときにもそんな感じでしたが、言葉や無視などの態度によるいじめを受けていました。
もちろん学校にも言えず、家では父親から怒鳴られ・無視されていましたので、あの当時は本当にどこにも私が安心できる場所はありませんでした。
そこで私は勉強にとにかく力を入れなければならないと思っていました。何か一つくらい対抗できるものを作っておかなければいけないと思い、そこまで優秀では無かったですが、自分なりに勉強をすることで、いじめや家の環境と戦っていました。
幸い次第に周囲が守ってくれるようになったり、なぜかいじめっ子と仲良くなったりということでいじめはなんとかなったのですが、やはり自分の身を守るためには、何か武器を持たないといけないと考えていました。
そこで考えたのが、法律を武器にするということでした。元々勉強をすることで自分を守ってきた経験から、学ぶことで自分や誰かを守れるかもしれないと感じており、小学校から関心があった法律について、本格的に学びたいと思うようになりました。
(実はいじめっ子にも家庭環境の背景があったり、ある出来事をきっかけに仲良くなったこともあったので、いじめる側にも背景があることを学んだ機会になりましたが、どこかで書ければかきます)
4 東日本大震災で壊れた父親との「絆」
法律を学ぶことで、誰かの支えになりたいと思わせた大きなきっかけが、もう一つありました。それが父親からの言葉でした。
2011年3月11日の東日本大震災が起きたとき、私は高校2年の3学期の期末テスト真っ最中の時期でした。私が住んでいた地域は最大震度5強という、もちろん被災地に比べればそこまで大きくなかったですが、私が生きてきた中で一番大きな地震を経験したので、本当に怖い思いをしていました。
地震だけでなく、津波、原子力発電所の事故、火災、そんな映像がテレビから流れ、不安でいっぱいの日々でした。特に私が住んでいた地域は、放射能のホットスポットと言われた地域でしたので、より一層怖い日々を送っていました。
父親についての記事で書いたかと思いますが、私は基本的には父親が家にいるときには、外出したり、自分の部屋にずっといたりするのですが、放射能の影響から外に出ることも怖く、一方で自分の部屋にこもるのも一人でいるのが恐怖でしたので、少しでも誰かがいるところにいたいと父親もいたリビングにいることにしました。
すると父親は次第に私の存在を目にする度にイライラしており、私もそれをひしひしと感じていました。そんなある日、水を水道から取りに、父親とすれ違おうとすると、「おまえ、なんでここに居るんだよ。邪魔だよ」と言われたときがありました。
私からすると、その言葉は存在を否定されたも同然の言葉でした。私だって、父親と一緒の空間にいたくなかったし、これまで10年以上そういう関わりの中で、それ以上におそろしい地震の出来事で、わらにもすがる思いでリビングで時間を過ごしていた私にとっては、いったいでは私はどこに居ればいいのかととても悔しかった記憶があります。
当時、東日本大震災を流すニュースでは「絆」がはやり言葉で、その年の流行語大賞にもなったと思いますが、私にとっては東日本大震災というのは父親との「絆」が壊れた日でした。
そして同時にこう思うようになりました。こんな辛い思いを、他の子ども達にしてほしくない。将来にかなりの影響を受ける子ども達にとって、つらい思いをしてほしくない。
私は小さいときから漠然と人の役に立ちたいと思っていましたが、それは無意識に父親との関係が影響していたのだろうと、今から振り返ると思います。
こうして私は法律を本格的に学び、子ども達や誰かを守るために弁護士になりたいと思い、大学へ進学することになりました。
(ちなみに大学時代の学費はすべて私が払っていましたが、世帯の年収の関係から無利子ではなく、有利子の奨学金をかりざるをえなかったことも、結構大変でした。)
5 まとめ
さて、この記事では裁判を起こすハードルを下げていた、法律を学び弁護士を目指すきっかけについて書きました。
①きっかけは、漠然とした人の役に立ちたいという思いと裁判ブログ
②武器としての法律が必要だといじめや父親との関係から体感していたこと
などが私にとっては大きな出来事でした。
今こうして私も裁判ブログを書いたり、
原告として弁護士さんたちと一緒に裁判をしているというのは、
なんだか色々感慨深いものもあります。
大学進学後、私は法律を学びながら、弁護士ではなく福祉の道へ進むことになるのですが、それについてはまた別の記事を書きたいと思います。
長文ご覧いただき、ありがとうございました。