裁判ブログ編
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なぜ児童相談所職員になりたかったか〜父親の存在編〜

けあけあ
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0 父親の存在なしでは語れない

さてこれから「なぜ元職場の千葉県・児童相談所に裁判を起こしたのか」を書いていこうと思います(その経緯に関しては以下の記事)。

自分の言葉で語ることにした:なぜ元職場の千葉県庁・児童相談所に裁判を起こしたのか
自分の言葉で語ることにした:なぜ元職場の千葉県庁・児童相談所に裁判を起こしたのか

実際に児童相談所での勤務の話を書く前に、「なぜ児童相談所で働こうと思ったのか」という点を書かないことはできなかったので、これからいくつか書いていこうかと思います。

ざっくり結論だけ先にお伝えすると、「自分と同じ思いを他のこどもにはしてほしくないと思ったから」というのが、児童相談所職員になろうと思った動機ですね。

今回は父親編です。

最初にお伝えしておくと、いまだに私としては父親の存在は整理しきれていないので、私の理解としても不完全だと思っています。

また当時の記憶は、かなりすっぽりと抜けているため、周囲から話を聞いて私自身の中で再構成しているところが大きくあります。

なので文体としても「らしいです」「ようです」という言葉が多用されて、読みづらいかと思いますが、後日修正するので、ご容赦いただければ幸いです。

それを念頭に読んで頂けますと幸いです。

1 ただ怖かったという記憶

 どうも聞いた話によると、本当に小さな頃から父親のことはこわがっていたようです。とはいえ父親ですので、2人っきりで過ごさないといけないときもあり、そんなときは母親にしがみついて泣きじゃくって嫌がっていたみたいです。

 なぜ小さいときからそんな状態だったのかはわかりませんが、私の父親としてもこどもとの接し方がよくわからないような人でした。というのも、私の父親とその父親(私からすると祖父)との関係が劣悪だったらしく、「父親とはなんなのか」ということが私の父にもわかっていなかったことが大きかったようです。

 そんな父親だったこともあり、こどもの頃の私の扱い方も困っていたのかもしれません。

 さて、幼い頃の私の父親の記憶といえば、よく怒鳴る人という印象でした。電話の前でしょっちゅう怒鳴り声をあげ、そのイライラと家具や家電にぶつけ、パン・バン・ドンといった大きな音を立てていることがもはや日常でした。

 一つ覚えているのは、私が幼稚園の頃、確か父の日に父親の似顔絵を描いたものをテーブルの上に乗せていたところ、相変わらずのイライラした様子で机をバンと父親が叩いたところ、近くにあったコップから水がこぼれて、似顔絵がびしょびしょになって、私がすごく泣いたという記憶があります。

 ただ確かその後の記憶では、そのびしゃびしゃになった似顔絵も、乾かして壁にかざっていたような気もします。さすがに父親も悪いなと思ったのかもしれませんね。

2 小学生以降関係が悪くなる

 私が小学校上がったころから、父親の機嫌がみるみる悪化していきました。

 その頃父親は会社で地位が上がった管理職になったようで、責任も重くなっていたような時期でした。

 それもあったのか、しょっちゅう会社でのストレスを家に持ち帰っていました。ドアを強くバンと閉める音。食器がガシャンと強く割れる音。「ああああ!!」と怒り叫ぶような声が毎日家の中に響いていました。

 この頃から怒りが私の方に向いていたような気もします。私の姿をみると、チッと大きな舌打ちをし、「おはよう」と声をかけると無視され、逆にあいさつをしないと「なんであいさつしないんだよ」と怒鳴られていました。

 一つエピソードを。本当にたまに外食をする機会があったのですが、だいたいその度に「箸をもっと綺麗にもてよ」とか「食器の持ち方はそうじゃないだろ」と厳しく言われていたのですが、あるときお腹が減らなかったのか「きょうごはん(米)いらない」と私が言ったときがありました。その時に、父親から「米くらいくえよ!」と周囲のお客さんからも心配されるような大きな声で怒鳴ったときがありました。

 今思えば、「なんでそんなことで怒ったんだと」笑い話のようにも思えるような話ですが、それほど父親もストレスが溜まっていたんだろうと思います。

3 家の中が安全じゃない

一方で母親はなんとか私をフォローしようとしてくれました。父親は母親に対してはほとんど怒ったことがなく、母親が私を守ることで、父親は手を出せないような感じだったようです。

 とはいえ、私にとっては自宅は安心できる場所では全くありませんでした。母親がいないタイミングで父親と会えば、何かしら攻撃的な態度がありました。

 そのため私は父親と会うことを極力避けようとします。父親がいるときにはなるべく外出をするようにしていました。夜や休日など父親が自宅にいるときには、なるべく自分の部屋にこもっていました。父親が帰ってきた車の音がわかるようになると、すぐに自分の部屋に避難しました。父親がリビングでご飯を食べているときには、私は部屋から外には出れません。父親が就寝した頃にようやく風呂に入ったり、ご飯を食べることができました。

 そんな頃、リーマンショックが起きました。例に漏れず、父親が勤めていた会社も大きな打撃を受けたようでした。

 するとさらに父親からの当たりは強くなっていったようです。「ようです」というのは、正直その頃の記憶がすっぽり抜けているからです。記憶はないものの、父親の乗っていた車だけは今でもよく覚えています。それが父親から逃げるサインの音だったからです。

 父親の話をきいた母親によると、私に対して厳しい態度をとっていたのは自分の会社にいる若い職員のようにはなってほしくないいう思いがあったようです。

 バブル崩壊後の、就職氷河期そしてリーマンショックという大きな日本経済の変動も背景にあったのかもしれません。

4 他の子にはこんな思いをしてほしくないー法律との出会い

 こうした体験をしていたためか、将来は人の役に立てるような仕事を目指していました。自分のような体験を他の人・子どもたちにしてほしくない、といった思いがあったのかな思います。

 そんな子どもの頃、私にとっての支えになっていたのはある裁判のブログでした。家に父親のパソコンがあったので、時々インターネットをいじっては、遊んでいました。そんなとき、当時ブログサービスが流行っおり、たまたま見つけたのがある裁判のブログでした。

 ブログの名前は「うちのネコが訴えられました!? -実録ネコ裁判-」という名前でした。書籍も出ているようでしたね。

「あなたのネコを訴えます」-ある日、舞い込んだ内容証明書。平和な毎日が一変、突如「被告」になって裁判所へ。ネコの逃走経路、証拠隠滅、車のキズは・・・・。本当にあった奇想天外な笑えぬ裁判の結末は?

「カドカワストア」より引用 https://store.kadokawa.co.jp/shop/g/g200510000030/

 作品はフィクションも多く含んでいたとは思いますが、当時の私にとっては、裁判や法律がこんなに身近なものなんだと感じるきっかけでもありました。と同時に、法律が自分を守り、他人を守るための武器であることもしりました。 
 法律を学べば、他の人を守れるかもしれない。そんな思いから、大学で法律を学びたいと思うようになりました。

5 壊れた父との”絆”と東日本大震災

 そんな時に起こったのが、東日本大震災でした。自宅は特に被害もなく無事でしたが、ニュースで度々流れる倒壊、火災そして原子力発電所の光景、津波に恐怖しました。あまりにショックな出来事でした。

 当時、震災の影響で仕事が休みだった父親は常に家にいる状況でした。私は、あまりに不安な状況で怖くて自分の部屋にいることもできず、やむを得ず父親のいるリビングで勉強していました(まだ定期テスト真っ最中だったので)。

 明らかに父親はイライラしているように見えました。ある日父親とすれ違った時、「なんでお前がここにいるんだよ。部屋にいろよ」と怒鳴り声で言われました。

 それが私にとっては大きなショックでした。怖くていつかは父親から怒鳴られるかもと思いじながらも、それ以上に震災が怖いからここにいるのにと。存在を否定された気持ちでした。そして、地震の恐怖に耐えながら、部屋で泣いていました。自分が誰かを頼りたいときですら、頼れない父親とはなんなのだろうかと、悔しくなりました。

 東日本大震災の当時、”絆”という言葉がよく使われました。家族の”絆”でこの震災を乗り越えていこう。そんなことが叫ばれていました。むしろ私は父の間に”絆”なんてないんだと、世の中の流れとのギャップにもとても悲しくなりました。私にとって東日本大震災は、父親との”絆”が切れた日だったという記憶がとても残っています。

6 終わりに

 その後、私は法律を学ぶため、弁護士になるために、奨学金を自分で借りて大学へ進学します。なぜそこから児童相談所の職員になりたいと思ったのかは、また後日書きます。

 これまでも父親関連の記事は書いてきたので、以下の記事もよかったらご覧ください。

自分の父親の話①〜「虐待」と言われることへの葛藤と心理的虐待〜
自分の父親の話①〜「虐待」と言われることへの葛藤と心理的虐待〜
弁護士になりたかった学生時代の話
弁護士になりたかった学生時代の話

 ここまで長文読んでいただき、ありがとうございました。引き続き、暖かく見守っていただけると幸いです。

7 あとがき

 正直、案外するする書けたなというのが自分でも驚きでした。結構自分の生育歴に目を向けて書こうとすると、すごくエネルギーが必要で、すごく書く度にへとへとになっていたこともあるので。

 これまでいろんな人に話をきいてもらったことも大きかったのかもしれないですね。改めて感謝です。

 

運営者について
飯島章太
飯島章太
フリーライター
元児童相談所職員での経験を活かして、子ども・若者のケアに関わる人たちに取材を続けています。著書に『図解ポケット ヤングケアラーがよくわかる本』 。
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