3月11日に寄せてー私が児童相談所に就職しようと思ったきっかけー
0 はじめに
こんにちは。飯島章太です。このサイトは、裁判についてまとめたいと思って作ったサイトです。① 取材してくださった新聞や記事や動画のまとめ②寄付のお願いを主に書いたままにしておりましたが、③裁判に関わる記事や当時のことについても書いてみようと思い始めてみます。
2011年3月11日の東日本大震災は私にとっては「父親との家族の”絆”が崩れた出来事」でもあり、児童相談所に就職したいと思うきっかけにもなった大きな出来事でした。
1 私と父との関係
元々私は自分の父親との関係が幼い時から良くはありませんでした。幼稚園の頃から、父は電話越しに怒鳴り声でよくケンカしていました。そしてそのイライラを家具にぶつけて、食器の割れた音もよく響いていました。幼稚園の頃で思い出すのは、父の日に書いた父の絵が、父がテーブルに八つ当たりした衝撃で倒れたジュースで、びちょびちょになって私がよく泣いたことがよく覚えています。
小学校に上がると、明らかに父親のイライラ度が増したのがわかりました。父が管理職として務めていた会社の経営が傾いていた頃だったようです。相変わらず家具を叩く音が大きく、食器が割れ、ドアがバンと壊れんばかりの力で閉められる音などが響くことは日常茶飯事になりました。
同時に、私に怒りの向きが向いてきた頃でもありました。「おかえり」と言っても、チッと舌打ちをして無視され、珍しく話した時には箸の持ち方などの些細なことで怒鳴り声で叱りつけられてきました。
そんなこともあり、私にとって自宅は安心できる場所ではありませんでした。父親が帰ってきたサインは車の音でした。その音を感じると、即座に私は自分の部屋に避難してきました。今でもその音を聞くと、近くに父親がいる気がして怖くなります。父親がリビングでご飯を食べているときには、私は部屋から外には出れません。父親が就寝した頃にようやく風呂に入ったり、ご飯を食べることができました。
2008年頃のリーマンショックで父親の会社は大きな影響を受けたようで、以降さらに父親からの当たりは強くなっていきました。ただ、正直その頃父親から言われた言葉や態度は、以降すっぽり抜けてしまっています。それがなぜなのかはわかりませんが、思い出すこと自体が苦痛だったことは確かでした。
2 壊れた父との”絆”と東日本大震災
そんな時に起こったのが、私が高校2年生の時に起きた東日本大震災でした。自宅は震度5強の地震で無事でした。ですが、ニュースで度々流れる倒壊、火災そして原子力発電所の光景、津波に恐怖しました。そして何より心痛かったのは、津波で家も家族も流され泣きながら家族のことを呼ぶ女性の姿が、何度も何度も何度も違う局でも流れていたことでした。私は一切震災のニュースから距離をとることにしました。あまりにも目を向けられないニュースだったこと、そしてその女性のことを何度も放映するテレビの報道のあり方にとても疑問を持つようになったからです。
報道から距離をとったといえ、あまりにショックな出来事でした。当時、震災の影響で仕事を休んでいた父は常に在宅の状況でしたが、自分の部屋にこもることは怖くてできず、やむを得ない状況で、すがるように父親のいるリビングで、人のいる安心感を頼りました。
東日本大震災の当時、”絆”という言葉がよく使われました。家族の”絆”でこの震災を乗り越えていこう。そうした状況だったのをよく覚えています。
震災の影響でテストがまだ延期されたこともあり、リビングで英語の勉強をしていました。そしてキッチンに水を取りに行こうとした時、トイレに立った父親とすれ違いました。その時すれ違いざま「なんでお前ここに居るんだよ。部屋にいろよ」といつもの怒鳴り声で言われました。
それが私にとっては大きなショックでした。怖くて怖くて、どうせ怒られるだろうと思うけど、それ以上に怖くて頼っているのにと、存在を否定された気持ちでした。そして、地震の恐怖に耐えながら、部屋で泣いていました。自分が誰かを頼りたいときですら、頼れない父親ってなんなのだろうか。私と父の間に”絆”なんてないんだ。世の中の流れとのギャップにもとても悲しくなりました。
私にとって東日本大震災は、父親との”絆”が切れた日だったという記憶がとても残っています。
3 東日本大震災のボランティアでの経験
報道からも父親からも距離をとってきた私でしたが、無事に大学への入学が決まりました。学費は自分持ちでしたが、中学校の頃から誰かが困っているときに力になれる存在になりたいという思いと、裁判や法律への興味から弁護士になるために法学部に進学しました。
大学入学した夏、高校から続けていた弓道がきっかけで入ったサークルで、先輩から「俺、今東日本大震災のボランティア行っているんだけれど興味ない?」とお誘いを受けました。
報道からは距離をとっていた私ですが、震災や被災した地域のことはずっと関心を持っていました。そして同時に、報道ではなく、自分の目でその地を見たいを思っていました。そうして私は、2週間ほど宮城県の仙台市の海岸地域でボランティアをすることになりました。
私はかなりの人見知りで、誰か知らない人と一緒に作業をするとか、雑談をするとかは全く苦手でした。でも先輩たち始め、ボランティアの先輩たちがいろんなことを教えてくれました。「この高速道路から先が津波の被害の分かれ目だった」「今は笑って話しているけれど、それにはどれだけ時間がかかったか」報道ではわからなかった被災地域の人たちの姿をみて、お話を聞かせてもらってきました。
とはいえ、なかなか人慣れしてなったため疲れてしまい、ボランティアの休憩時間中に人から離れた縁石で一人座って休んでいました。そんなとき、道の向こうから80代くらいの女性がこちらに歩いてやってきて、「ボランティアの人?」と話しかけてくれました。「そうです。ちょっと疲れて休んでました」と返すと、「そうなの。このブロックに跡があるでしょ。この高さまで津波が来たのよ」と女性が語りはじめました。その時の状況をありありと伝えてくれました。「私はここに捕まっていたから助かったけれどね」と、淡々と語っていました。そのとき私は何も返せずに、ただうなづきながら話を聞いていました。そんなとき、話を止めた女性が私の目をじーっと見て一言、「命を大切にね」と言葉をくれました。
今思い返すと、父親のことで悩んでいた私も、何度も誰かに相談しようとか、電話しようというときに(実際電話はできなかったですが)、カードの表面などに「命が大事」などのメッセージをもらっていました。でも、そのこれまで見てきたメッセージよりも、何よりもその女性の言葉の重みが伝わってきました。震災というショックやつらい思いも、大変な経験も、命からがら生きてきた人が、それでも「命を大切にね」と、18歳の私に伝えてくれたことは、とても私の原体験になっていきました。私も生きないといけないと思わされましたし、同時に私にも何かできることはないかと考えるようになりました。
4 震災の経験と児童相談所への就職
震災から帰ってきて、自分ができることは何かと考え続けていました。何かできるわけでもない。何か経験があるわけでもない。そんな風に思っていたときに、私のとても親しくしていた友人から「ちょっと話をきいてくれないか」と言われました。
「実は昔いじめ受けていてさ」と少しずつ語りかけてくれた友人の話を、何を返すわけでもなく、ただうなづきながらきいていました。本当に何を返したらいいかわからずに、ただただきいているだけでした。「なんかさ話しておかないとなって思って。きいてくれてありがとう。ちょっと気持ちが楽になったよ」と、話し終わったあとに言葉をくれました。
本当に何も言葉を返せていたわけではなく。ただただ必死に話をきいていました。そんな経験でしたが、友人と別れた後に、話をきくことならもしかしたら今の自分にできることかもしれないと思うようになりました。話をきくことで、少しでも話してくれた人にとって気持ちが楽になってくれるならやろうとおもいました。
今思えば、その動機も自分が父親との関係で悩んでいたときに誰にも相談できなかったことが大きかったのだと思います。自分のように悲しかったり、苦しかったり、つらかったりする子は他にもきっとたくさんいて、そうした子の気持ちを少しでも軽く和らげることが、今自分の経験としてできることなのかもしれないとおもいました。
そうした経緯で、子どもの電話相談のボランティアの経験をそこからかれこれ7年ほど続けることになりました。そして最終的にそれが子どもの相談場所としての児童相談所への就職につながったことは確かでした。
5 まとめ
震災から12年が経ちました。あれから児童相談所に就職してからもいろんなことがありました。父親との関係や震災そしてボランティアの経験が今の私を深いところから作ってくれていることは確かです。12年経ったいま、私はその就職先だった千葉県を相手に裁判を起こしているというのも不思議に思います。それは、傷ついた子がさらに児童相談所で傷つくといった可能性を少しでも減らしたいという思いから来ています。傷つき、悲しく、つらい思いをしている子の気持ちは、少しでも軽く和らげたいと思うからです。そんな思いを持ちながら、こうして裁判を続けています。震災から12年、震災はまだ続く出来事としてあります。私なりに何ができるのか考え、行動していくことを続けていくことが、私にできることだと思います。