【7月26日に思うこと】
ここずっと、頭の中の議論が絶えない。
ここ最近はあまり言葉にしないことで、
そのはっきりしないもの、もやもやするもの、あいまいなものと付き合い続けることを大事にしてきた。
でもそれは孤独に様々な狭間に向き合うこととも近しい。
人は、言葉にすることでようやく人と議論してつながりを作れると感じるからこそ、そう思う。
もちろん、そのあいまいさを大事にして、あいまいなものをあいまいなまま人との空間を共有する場所もある。
(石川歩さんの「あわいろ」の取り組みはその一例)
7月26日という日は、言葉にしきれないけれど、せざるをえない、でも言葉にならない、そんなもどかしさを抱える日な気がする。
もちろん節目というのは、あくまで恣意的かつ意識的なものなので、遺族・被害者にとっては終わらない現実であるのだけれど。
2016年7月26日神奈川県相模原市の障害者施設「やまゆり園」で、19人の入所者を含めた、45名の殺傷事件が起きた。
犯行を行ったのは、当時26歳の植松聖(うえまつ さとし)。
元その施設の職員だった。
事件から5年。
いまだにこの事件から何を向き合うべきなのか、
まだ私の中でははっきりしない。
考えることが多すぎる。
・元職員でもともとは、入所者のことを「かわいい」と話すこともあったこと(もちろん庇護欲的な考えかもだが)。
・犯行当時26歳と私と同年代のこと
・事件当時の2016年、私は障害のある方の介助をしていたからこその衝撃もあり、かつその年の秋に私自身が精神的な病を発症して、事件の受け止め方が時間を経ることに変わっていったこと(いわゆる「支援者」として、「当事者」として)
と考えていると、かなり消耗してくる。容易には語れない難しさがある。
・果たして私はどの立場から語ることができるのか。私は事件の「被害者」でもないし、「加害者」でもない。でも社会構造や世論形成という大きな括りでいえば、「被害者」でも「加害者」でもあるかもしれない。だからこそ、特定の誰かを一方的に責めたり、逆に大きな責任を背負うことも、私にとっては難しいことだった。
それでも世の中は流れていく。
日々ただでさえ、それぞれの困難を抱えている時代。
コロナの流行の中で、余裕を無くしているそれぞれの生活。
一方での国民的なイベントへの熱狂。
なるべく前向きに、明るく、ポジティブに、楽しく。
できればそうありたいと願い、ふるまう。
ネガティブなことや、深刻なこと、あいまいなことはできるだけ考えたくないし、見ないふりをしたい。
世の中はどんどん良くなっている、進化していると信じたい。
でもそのツケは、歪みは、どんどん大きくなっていっている(気がするのは私の偏見?)。
その結果の一つが、やまゆり園の事件であり、植松死刑囚なのではないかなと思っている(飛躍しすぎ?)。
だからこそ、私のささやかな、世の中の歪みへの抵抗として、
容易には答えの出し得ない、けれど答えが求められる、
複雑で深刻で言葉にならない、あいまいではっきりしないことに対して、
考え続け、その場で仮置きかもしれない答えを、言葉を出し続け、練り直し続けていくしかないかなと思っている。
それがなんだかんだ人のつながりを生む気もするので。
長くなりました~。以上。